文章を書く

難しいものを簡単に伝えることはできるのか

僕がここ数年間でXにポストした数はとても少ないのですが、別に発信したいことがないわけではないのです。

実は書いているのですが、ポストする段階で「つながりのある人に、誤ったシグナルを送ることにつながらないか」とか「この主義に立つ人へのフォローがないと、歪曲されて解釈されてしまうのでは」とか「トレンドの中で、意図しないコンテキストを与えられてしまうのではないか」みたいなことが気になってしまい、結果的にお蔵入りしてます。

短いポストの中で「⚪︎⚪︎は⚫︎⚫︎だ!」「⚪︎⚪︎が最高!他はクソ」と威勢よく言い切れたり、ターゲティングした集団を動かす発信できる人が、世の中的には重宝されるとわかっています。でも、僕はそういうテンションに馴染めないなぁと思っていました。

難しいものを難しいまま受け入れる

ここ数年「難しいものを難しいまま受け入れる」ということを個人的に意識してます。

例えば、世の中で起きている物事(e.g. 経済 / 政治 / 人間関係)は、多くの因子によってそれが起きています。そして「物事がどのような因果によって、現状として表出しているのか」という点は紐解くことがとても難しいのです。だからSNSでは簡単に答えを教えてくれるコンテンツが支持されます。

そういったコンテンツが理解や入口として適切な場合がある一方で、「世の中で起きている物事は、そんな簡単に説明できるものではない」という体感が、自分の中で年々強くなってきています。なんなら、僕たちが因果を理解 / 説明できる物事の方が少ないのかもしれません。

だからこそ「わかる」をゴールにした時に、そのための手段が「簡単であること / 単純であること」は、両立が極めて難しいはずなのです。

「難しい問題はどうやっても難しい」「意図を正しく伝えるためにはコストが掛かる」という事実を僕たちは受け入れないといけません。

SNSが「難しいものを簡単に説明する場、もしくはそのようなものをピックアップされる場」である以上、自分の思想とはフィットしないなーと思っていました。

なので、ここに来て文章(= ブログ)というわけです。

これから

別にSNSのアカウントを消そうとは思っていないです。もしかしたらラーメン二郎の画像を時々ポストするくらいはあるでしょう。でもその程度の使い方しかしなさそうな気がします。

僕自身が感じた「おもしろかった」「おいしかった」という感覚も、いろいろなコンテキストを経た感覚なはずです。それらのディテールをなるべく捨象しないためにも、難しさや複雑さにコストをかけて向き合い、文章にしていきたいと思っています。